古代人イエスのABBA(1)

以下、大貫隆著『イエスの時』(岩波書店)より引用。

 

<共観福音書伝承に対するR・ブルトマンの様式史的研究以降、E・ケーゼマンを筆頭とする彼の弟子たちがリードしてきた史的イエス研究においては、いわゆる「独一性の原則」が圧倒的な承認を得て、実際に適用もされてきた。その原則とは、同時代のユダヤ社会あるいはその周辺世界に類例が見つかるような言葉は、たとえそれが現在の共観福音書において、イエスの発言とされていても、実際に生前のイエスにまでさかのぼるものではないというものである。これを逆に言い直せば、周辺世界に類例のない独一のものこそ、歴史的に生前のイエスの真正な発言と見なし得るという原則である。周辺世界に類例の見つかるものは、原則として、イエスの死後の原始教会が採用して、事後的にイエスの口に入れたものだと説明される。そのもっとも見やすい事例が、様式史的研究の術語で「主の言葉」と呼ばれる一群の言葉である。(中略)

様式史的研究以降のイエス研究では、これらの言葉の大半が生前のイエスではなく、原始教会の手に帰された。原始教会が自分たちの宣教経験をこれらの言葉に託して表現し、それをイエスの口に入れたのだというのである。その結果、ブルトマン学派の研究において提示されるイエス像は、骨と皮ばかりにやせ細り、おまけに脱色されたイエス像になってしまった。なぜなら、真正性、すなわち生前のイエスの発言であることが認められた数少ない言葉についても、それらが相互にどのような意味のネットワークを構成するかを明らかにすることが容易でなかったからである。その結果、そうすることがとりわけむずかしい言葉は、まさにこのむずかしさを理由にして、原始教会の産物として説明されるか、仮にそこまでは行かないまでも、扱いをスキップされてきた。そのような隙間だらけのイエス像が「史的イエス」と呼ばれて、あくまで「学問的再構成の枠内での概念」などと説明されてきたのは、決して偶然ではない。私も長い間、そのような隙間だらけのイエスのために格闘していた。私にとって大きな転換となったのは、他でもない、これまでの研究においてスキップされ、言わばブラックホール化していた言葉あるいは記事のほとんどが、一つのイメージのネットワークに収斂することを発見したことであった。すなわち、「死人の復活についての問答」(マコ一二18-27)、「神の国での祝宴」(マタ八11/ルカ一三28-29)、「洗礼者ヨハネに対するイエスの回答」(マタ一一5-6/ルカ七22-23)、「天(神)の国を激しく襲う者たち」(マタ一一12/ルカ一六16)、「天から墜落するサタン」(ルカ一〇18)、「金持ちとラザロ」(ルカ一六19-26)が、私の言うイエスのイメージ・ネットワークにとっては中核的なテクストとなった。>(p97~100)

 

史的イエス研究の視点として不足だったのが「古代人イエス」の視点。それゆえにイエスは反権力の活動家のような時代錯誤のヒーローにされてしまっていた(荒井献著『イエスとその時代』のイエス像、田川建三著『イエスという男』の〔逆説的反抗者としての〕イエス像、そして究め付けは土井正興著『イエス・キリスト』の〔革命家〕イエス像など)。荒井氏は前掲書の「Ⅰ 方法」で、「イエスを革命家とみなす歴史家たちと、それに反対してイエスを精神の変革者とみなそうとする聖書学者たちとは、共に政治と宗教を二つの異った領域に区別する近代的発想から自由になっていない。これでは、イエスを古代の歴史的文脈の中に位置づけることは不可能ではなかろうか。」(p24 ※青文字は傍点付き)とか、「Ⅳ 民衆と」では「イエスはその行動と思想の視座を、支配ー被支配、体制ー反体制という政治的・経済的区別を超えるところに置いていた。」(p112)とか、<イエスは必ずしも「階級的視点」からのみ、被差別者の側に自らを置いたのではなかった>(p129)と言う。しかし荒井氏のイエス像も「近代的発想」を免れ得ないことは「ⅴ 権力に」という題に象徴されている。荒井氏は、「イエスの行動は、一方においてゼーロータイ的志向を有する人々にはメシア的行為として、他方神殿勢力にとっては瀆神的行為として受けとられたに相違ない。」(p164)とか、「マタイは(中略)このイエスの行動をメシア的振舞として編集しようとしているし、現代の若干の歴史家たちも、これをなにがしかメシア的革命運動の一環として位置づけようと試みている」(p164)と指摘し、自分はそのようなメシア観は採らないとしたうえで次のように述べている。<しかし他方において、イエスを政治的革命家に仕立て上げるよりももっと正しくないのは、イエスの行動に必然的・不可避的に伴わざるをえない政治的局面を全く無視して、彼を、政治とは関わりのない宗教的次元に押し込み、人間に「魂の悔改め」あるいは「内面の自由」を迫ったいわゆる「宗教家」として理解しようとする試み>だと批判し、「当時、イエスが、民衆、とりわけ政治的=宗教的に、すなわち社会的に差別の対象とされていた民衆と共に立った」(p164)と述べている点である。「政治的局面を全く無視」することも古代人イエスに迫る上では問題だが、「イエスはその行動と思想の視座を、支配ー被支配、体制ー反体制という政治的・経済的区別を超えるところに置いていた。」と言いながら、古代ユダヤ社会を「差別ー被差別」の人権思想で捉えるところにも無理がある。「民衆と共に立った」などという表現がいかにも日本で言えば大塩平八郎みたいな革新的英雄イメージを反映しているのだ。現代人の目から見て、歴史現象として結果的にはそういうことが言えるかも知れないといった程度のことを荒井氏は誇張して述べている。とてもとても、イエスを「古代の歴史的文脈の中に位置づけ」得ているとは言い難い。<イエスが、この十字架刑に至る道として、当時社会的に差別されていた「罪人」と同行したこと、そして、そのような振舞が、この人々を差別することによって自らの社会体制を維持しえたユダヤの最高法院勢力と、その宗教的=経済的拠点としての神殿を批判するに至らせ、ついにはその背後に立つローマの国家権力を介入せしめる結果を伴ったこともまた、史実として否定しえない>(p21)とか、<もちろんイエスは、一度も自らメシアなること、つまりキリストなることを主張しなかったし、現在のローマ支配体制を倒して、新しい神支配体制を打ち立てる意図をも持っていなかった。イエスは、常にいわば社会的「弱者」に視座を据えて、究極的には国家権力に抗った>(p175)とか、<彼はただひたすらに、当時の政治的=宗教的体制によって差別されていた「地の民」あるいは「罪人」のもとに立ち、民衆と共にあって、人間が人間らしく生きることを、人間が他者から生きる生活を共有し合えることを求めたに過ぎない。その結果必然的に差別をつくり出しているユダヤの支配者たちの、民衆に対する日常的しめつけの部分を批判することになり、それが次第にエスカレートしていって、律法批判から神殿批判に至ったということであろう。>(p204~205 ※青文字は傍点付き)というところも、「エスカレートしていっ」たというのは古代人としてイエスを見ていると言えるが、<「地の民」あるいは「罪人」のもとに立ち、民衆と共にあって>という部分などがいかにも近代的であり、佐竹明氏の「復活」理解の一文(<告白する信徒の側から言うならば、それは、到底一人前に扱われる資格なしと自他ともに決めていた自分たちを一人前に遇したイエスのわざに対しての然り(中略)彼らは、イエスの周囲にいる時に味わった一人前に扱われるという経験が、決して単なるエピソードでないことを今や確信するに至った。「神はイエスを死人の中からおこした」と告白するに際し、彼らが第一にそれにこめた内容は恐らくこのようなものであったろう。>・・・日本学士院賞を受賞するような学者に何がわかる!)と同様に、民衆の実態に疎いプチブル・インテリのセンチメンタルな民衆観を匂わせている(荒井氏はこの佐竹氏の「復活」理解を、復活伝承の担い手の属した社会層についての認識の点では批判しつつも「それ自体としては正しい」と述べている)。「もとに立ち」も「共にあって」もない、イエス自身がそれなのだ。彼が社会の中でこういう人々と共にどうしよう、こうしようと考えたと想像すること自体がおかしい。彼は彼。あくまでも自分の足元から歩き始めたのである。誰のためでもなく、自分が出会っている「アッバ」なる「神」との関係を伝えて廻ったまでだ。「差別」がどうの「弱者」がどうのというのは全部、近代以来のヒューマニズムないしは現代の人権思想にもとづく観方である。イエスと共にあったと言えるのは要するに当時の律法主義社会の価値基準に於いて絶望的状況に置かれた人々である。それを「支配ー被支配」はともかく、「権力-反権力」とか「体制-反体制」とか「差別-被差別」の認識枠組みで捉えると時代錯誤に陥る。私は田川建三的イエス像は勿論のこと荒井献的イエス像にも共感しない。より古代の歴史的文脈に位置付けられたイエス像が期待される。
そしてようやく大貫隆氏の『イエスという経験』と『イエスの時』(どちらも岩波書店)
により「古代人イエス」の視点でイエスが、より客観性をもって描かれることになった。後者の方が私には難しかったが、大貫氏がルカ10:18のサタンが稲妻のように天から落ちるのをイエスが見ていたという言葉が、D・ルーザムや大貫氏の師匠という荒井献氏の説に反して生前のイエスのものであるとする大貫氏の論拠が述べられていることはわかった(同書p71~77)。これはすでに前者の方で述べられていたことである(p43~47)が、その確認であり、いかに大貫氏がこのルカ10:18を重視しているかがわかる。以下、前者と後者からそれぞれ、要点となることを引用する。

 

<本書はまず、イエスがどこまでも一人の古代人であったこと、特にその思考法が、好むと好まざるとに関わらず近代科学と技術に飼いならされた私たちから見れば、神話的あるいは前論理的としか呼び得ないようなタイプのものであったことを明らかにする。彼は宇宙が天と地下(冥府)の三層から成るという古代的世界像を自明のこととして共有していた。神はそのすべての創造主であり、天は神の足台である。天使がその天と地とを仲介し、地下には消えることのない業火が燃えていると考えていた。また、サタンとその手下の悪霊たちの実在も信じていた。プラトンでもアリストテレスでもなかったパレスチナの一介の庶民にとって、それは当然のことであった。「神の国」は今そのサタンの勢力を地上で克服しつつある。その闘いの最前線に自分は遣わされて、働いている。これがイエスの自己理解であった。>(『イエスという経験』の「はじめに 本書の課題と方法」viii)

<イエスの独創性は、「神の国」のイメージ・ネットワークに属する個々のイメージを無から創造したことにあるのではなく、それらを独自にネットワーク化し、その中で個々のイメージに新しい意味と役割を与えた点にある。この認識はイエス研究の方法論にとって二つの重大な帰結をもたらす(第V章)。その一つは、従来の「独一性」の規準、すなわち、周辺世界に類例のない独一のものこそ、歴史的に生前のイエスの真正な発言と見なし得るという規準がもはや立ちいかないということである。今一つは、すでに前著『イエスという経験』で述べたことの繰り返しになるが、イエスの社会的行動を「内側から」、すなわち、内的な動機づけのプロセスから解明するということである。イエスの社会的行動が、「神の国」のイメージ・ネットワークと無関係に動機づけられているはずがないからである。この意味での「内側から」の解明なしには、史的イエス研究はありえない。イエスの社会的行動を「外側から」、言わば「客観的」に規定した歴史的条件を解明することは、もちろん不可欠である。私もこれまでの文学社会学的な研究で、極力そのことに努めてきた。しかし、そのような「外側から」の解明においては、イエスは「客体」の位置にある。他方で、「史的イエス研究」とは、欧米における研究史のはじめから、イエスを「主語」の位置においての研究であったことに注意が必要である。「内側から」の解明なしに、イエスを「主語」の位置におくことはできない。イエスの「内側」と「外側」の両方からの解明が肝要なのである。しかし、前著『イエスという経験』に寄せられた論評から見るところでは、とりわけわが国の研究者の間で、イエスの「内側から」と「外側から」の方法論的な区別と統合が不十分である。そのために、議論が無用に混乱することが少なくない。それが最も顕著となったのは、同じ前著で私がイエスの最期の深い沈黙と十字架上の絶叫について、イエスの「内側から」、「(イエスは)予定の死を死んだのではない。覚悟の死を死んだのでもない。自分自身にとって意味不明の謎の死を死んだのである」(二一五頁)と述べたことをめぐる議論である。少なからずの読者が、私のこの発言に躓いた。その躓きの原因は、イエスの死は覚悟の死、あくまで「死ぬことができる死」であったはずだというこだわりにある。しかし問題は、このこだわりがすでにキリスト教信仰の「内側から」の、従って生前のイエスから見れば「外側から」の見方ではないのかということである。イエスの「内側から」と「外側から」の区別は、イエスの「神の国」がわれわれ現代人にとって持つ意義を取り出す「非神話化」の作業においても、不可欠である。本書で私は、生前のイエスが「神の国」を繰り返し「いのち」と言い換えていたこと、そこにすでに「事態」としての「非神話化」が始まっていることを指摘する。イエスの最期の絶叫は「非神話化への臨界線上での叫び」であったとも述べる。しかし、当然のことながら、これはイエスが自分の「内側で」そう意識していたということではない。「非神話化」とは、どこまでも現代の研究者がイエスの「外側から」行なう解釈である。その解釈からすると、イエスは「事態としての非神話化」に臨界していた。これが私の見方である(第Ⅵ章)。(中略)すでに述べたように、イエスの「神の国」のイメージ・ネットワークの独創性は、それに属する個々のイメージを無から創造したことにあるのではなかった。それらの個々のイメージの多くは、同時代のユダヤ教の中にすでにあったのである。イエスの独創性は、それら既存の個々のイメージを新たに、かつ独自にネットワーク化したこと、そのネットワークの中で個々のイメージに今や新しい意味と役割を与えた点にある。このネットワークがイエスにひらめいた瞬間こそは、「神の国」がイエスに啓示された瞬間であった。それは、ベンヤミンの言葉で言えば、さまざまな事物的な形象が集まって一つの「星座」(布置)を造り上げるときに、理念(真理)が現れ出る瞬間にほかならない。>(『イエスの時』の「はじめに」viii~xi)

大貫氏の結論としては、「イエスが宣べ伝えた『神の国』」とは「いのち」を意味するということである。そのへんのところを『イエスの時』より引用する。

<読者には、特にマルコ福音書九章43-47節に注意していただきたい。43節には「片手を欠いても生命に入る方があなたにはまだましだ」、45節には「片足なしで生命に入る方があなたにはまだましだ」とあるが、47節では「片目で神の王国に入る方があなたにはまだましだ」となっている。ここでは「生命」(zoe)は「神の国」と全く同義である。>(p287~288)

※ここまでの引用で、2カ所の「生命に入る」に傍点。「神の王国に入る」にも傍点。最後の「生命」に「いのち」とルビあり。その後のカッコ内の「zoe」「o」と「e」の上に発音を伸ばすことを示す横線あり。以下、その続きを引用する。

<すでに前著『イエスという経験』でも述べたことだが、「イエスが宣べ伝えた『神の国』は詰まるところ、『いのち』のことであった」(二六二頁)。「復活信仰」成立以後の原始キリスト教においては、生前のイエスが「神の国」について抱いていた「イメージ・ネットワーク」の組み替え(リセット)が進んだ。その中で、イエスの「神の国」はまもなく「(永遠の)生命」と言い換えられていった(特にヨハネ福音書)。それは非神話化の一部である。前著でのこの見方に、私は今ここで、こう付け加えたい。その言い換えは、すでに生前のイエス自身において始まっていたのである。この点で、生前のイエスはすでに非神話化の一歩手前まで、非神話化への臨界点に到達していたのである。すでに紹介した通り、「(全時的今)とは宗教的自己了解から出てくる実存的な時間であって、イメージから結果するものではない。そこにはもう少しつっこんだ検討があってしかるべきではないか」とは、八木誠一氏の論評であった。私は今、上記のような一連の「いのち」についての発言の中に、イエスの宗教的「直接経験」を見ることができると思う。>(p288)

※「(永遠の)生命」の「生命」に「いのち」とルビあり。

このあと、大貫氏の「いのち」に関するわかりやすい文章が自己引用されているが、「神の国=神の支配」を「いのち」と言い替えることは確かに指摘されているマルコ9章に照らして妥当なことなのだろう。また、そのさらに次の箇所では、「いのち」と訳される二つのギリシャ語「ゾーエー」と「プシュケー」とが、原則的には使い分けられるもののこの「二つの単語は相互に交代可能である」ことが指摘され、その例としてヨハネ福音書12:25が挙げられている。「衣食住によって今現に生きている」…「現下の日常における『命(プシュケー)』」が、「永遠の生命(ゾーエー)」に連続している…というのである(p289)。

しかし私は、「神の国=神の支配」は「神」を抜きにして非神話化するようなことはしたくない。私は、イエスの父なる「神」以外は相対化し、非神話化することにやぶさかではないが、「神の国=神の支配」というのは「神」と不可分であり、これ自体を非神話化することは「神」をも非神話化することにつながりかねない。すなわち八木誠一氏や上村静氏のように「神」を「いのち(のはたらき)」と言うようなことになりかねない。そうなると私にとっては宗教とは言えなくなる。それは行き過ぎた宗教哲学である。私にとってイエスの父なる「神」とは、いわゆる「人格神」という観念では尽くせないが人格的な存在であって然りである。つまり「人格」の比喩を使おうが使うまいが、意志ある実存でなければ「父よ(アッバ)」とは呼び得ない。すべてはイエスのこの呼びかけに「神」の何たるかが最も具体的に示されている。あとはイエスの言行のすべてから察せられるから啓示だというのである。それは決してイエスの身体を神の実体とするようなことを意味しない。私にとって「神の国=神の支配」とは、個々人にとっての「父なる神」との原関係であり、それなしには人生は虚無であるという意味において「生命」と言えるのである。

さらに『イエスの時』では、原始キリスト教に関する重要な指摘がある。以下、引用。

<前著『イエスという経験』で私は、原始キリスト教の成立を一つの覚醒体験、あるいは目覚めの体験から説明した。ペトロを筆頭として、イエスの処刑後に残された者たちは、いずことは知れず逃亡した先に蟄居しながら、神不在の暗黒の極みの中で、イエス自身にも「謎」であった十字架の出来事の意味を必死に問い続けた。その中で、イザヤ書五三章(「苦難の僕」の歌)をはじめとする旧約聖書の光に照らされて、「謎」と見えたイエスの刑死が、実は神の永遠の救済計画の中にはじめから含まれ、旧約聖書の中でも予言されていた出来事として了解し直されたのである。旧約聖書そのものの新しい読解としての「謎」の解明、それを私は解釈学的な出来事とも呼んだ。(中略)もちろん、当事者である弟子たち自身は、彼らのこの経験を「解釈学的」などという現代的な表現では呼ばず、「啓示」と呼んだ。神が霊を通して彼らに与えてくれた認識だと理解したのである。聖書の世界で「啓示」とは、ただ単に「知」の問題ではない。むしろ、人間の「存在」全体にかかわる出来事を意味し、「生」の変革を引き起こす。(中略)原始教団における復活信仰の成立が解釈学的な出来事として説明される場合には、イエスを見捨てて逃亡してしまった弟子たちの「罪責感」という心理学的問題はどうなるのかという点である。特にこの点にこだわるのが、佐藤研氏である。氏は原始キリスト教の復活信仰の成立を、弟子たちが自分たちの「罪責」を乗り越えるために行なった「喪の作業」として説明する(中略)。弟子たちが自分たちの逃亡行為に深い罪責感を覚えたことは間違いないであろう。しかし、それはいつどのように自覚され、弟子たちを苛んだのか。イエスの十字架の処刑に直面して逃げたとき、すでにその逃亡の道すがら、まさにその逃亡行為を「罪責」として自覚していたとは考えられない。私の見方では、反対に、「自分たちはイエスともども神から見捨てられた」という意識、「神の不在」の経験が弟子たちの逃亡を引き起こした最初の原因であったはずである。彼らがその逃亡を自分たちが犯した「罪」—―イエスを「見捨てた」罪—―と了解し直すのは、凶事と見えたイエスの刑死が実は神の摂理による救済行動として了解され直された瞬間、つまり復活信仰の成立と同時かつ不可分であったと考えるべきである。罪責の自覚は、一般にそうであるように、この場合にも、赦しの自覚と同時かつ不可分なのである。神が不在であるところに、罪責感は発生しようがないであろう。罪責感は「神の面前に」(coram Deo)おいてこそ成立する。残された弟子たちが十字架の処刑に救済論的意義を発見した出来事と彼らの罪責意識の発生は、同じ事柄の両面として、同時的な出来事と考えるべきである。罪責意識の方がそれだけで解釈学的経験に先行するとは考えられない。私が言うように、そこで生前のイエスの「神の国」が潰えたと見えた十字架の刑死が、今や原始キリスト教の復活信仰においては、実は神が当初から計画していた救済行動であったのだ、と解釈し直されたのだとすれば、原始キリスト教の復活信仰の成立は明らかに一つの逆転劇であったことになる。事実、これが私の見方である。それは、あれほど残虐なイエスの「謎」の刑死も初めから神の救済計画の中にあったのと見る点では、単なる逆転の発想であるのみならず、一つの神義論であるとも言えよう。(中略)

イエスの逮捕、裁判、処刑という予期せざる出来事に直面して、いずこかへと逃亡してしまっていた直弟子たち(マコ一四50)は、前述のような「復活信仰」に到達した後、再びエルサレムに結集する。そうして成立した小さな群れのことを「原始エルサレム教会」と呼ぶ。今や彼らは、イエスを単なる人間であることを超えた存在、「救い主」、「キリスト」あるいは「神の独り子」と信じ、ユダヤ教の聖典(キリスト教の言う旧約聖書)を、そのイエスをあらかじめ指し示していた予言の書として読み始めている。それはユダヤ教徒から見れば、とんでもない読み方であったに違いない。しかし、原始エルサレム教会の自意識としては、自分たちはまだユダヤ教の中にいるのだと思っている。つまり、この時点で、自分たちはキリスト教という新しい信仰(宗教)を始めているという意識は彼らにはまだないのである。当然のことながら、事はそんなに早くも簡単にも運ばなかった。「妙な連中が現れてきた」というようにユダヤ教徒の側が排除を始めて、排除されるキリスト教徒たちの方も、「どうもわれわれは彼らとは違うらしい」というようにして、お互いの間の違いが認識されるためには、まだこのあと何十年か経たなくてはならなかった。例えば、使徒行伝一一章19-26節には、エルサレムからシリアのアンティオキアにキリスト教が伝わったこと、そのアンティオキアで初めて「弟子たちが『キリスト者』(クリスティアノイ)と呼ばれるようになった」(26節)と記されている。しかし、そうなるまでには、かなりの年月が経っていると考えなければならない。逆に今問題になっている段階では、ユダヤ教徒の方では「妙な連中が現れてきたな」程度に思っていたであろうし、原始エルサレム教会の信徒たちの側でも、自分たちはまだユダヤ教の中にいると考えていたはずである。しかし、反対に、時代が進展して、キリスト教がユダヤ教からはっきりと独立した段階から回顧する場合には、キリスト教の起源はその原始エルサレム教会までさかのぼるとすることにも間違いはない。その原始エルサレム教会のメンバーのほとんどは、もともとユダヤ教徒であった。そのようなキリスト教徒のことを研究上は「ユダヤ人キリスト教徒」と呼び、やがてキリスト教が前述のシリアのアンティオキアを初めとするヘレニズム世界にまで広まった段階で、異教(ユダヤ教以外の宗教)から直接キリスト教徒になった者たちと区別する。後者の方は「異邦人キリスト教徒」と呼ばれる。ユダヤ人キリスト教徒たちの贖罪信仰の考え方は、明示的であれ暗示的であれ、モーセ律法を大前提としている。モーセ律法の中心は、「モーセ五書」であるが、イエスと原始エルサレム教会およびパウロから見ても、少なくとも五百年ほど前には現在のような形に編纂されていた。(中略)原始エルサレム教会の贖罪信仰がモーセ律法という題前提抜きに理解できないわけは、まさに「罪」の定義自体がモーセ律法を規準としているからである。>(p123~134)

 

復活信仰の成立に関しては、肝心なイエスの遺体問題について両書とも全くふれていない。
それはともかく、後者『イエスの時』の68頁に記載された「図表5」は極めて重要であり、この図を念頭に置いた上で以下の大貫氏の言葉を読み取る必要がある。

<イエスは一人の古代人として、天上(B)と地上(C、H、G)と地下(I)の三層から成る古代的宇宙像を前提している。すでにサタンはその天上世界から追放されて地上に墜落し(A)、天上では「神の国」の祝宴が始まっている(B)。アブラハム、イサク、ヤコブを初めとする過去(C)の死者たちがすでに死から復活して(D)、天上の祝宴の席に着いている(B)。それと共に、洗礼者ヨハネにも影を落としていた黙示思想的な陰鬱な世界像は変貌し、今やイエスの目には被造世界全体が晴朗な姿で見えている(E)。もちろん、地上では落下してきたサタンが、配下の悪霊たちを使って、最後の足掻きを執拗に続けている。しかし、イエスは「神の国」の宣教の途上、悪霊憑きやその他の病気や障害をいやしてゆく。その一挙手一投足と共に、天上ですでに始まっている「神の国」が地上にも拡大してゆく(H)。もちろん、その完成はなお近未来(G)に待望されている。それは「人の子」、すなわちすでに天上の祝宴の席についている者たちが、「天使たち」と共に到来する時である。それは同時に、「さばき」の時でもある(F)。今、イエスの宣教を拒む者たちは、その「神の国」から自分を閉め出すことになる。反対に、東から西からの多くの者たちがやってきて、アブラハム、イサク、ヤコブと共にその祝宴の席に着く。アブラハム、イサク、ヤコブは過去の人物であるにもかかわらず、すでに復活して、天使のようになり、未来へ先回りして、今現に地上でイエスのメッセージを聞いて受け入れる者たちがやがて祝宴の席に加わるためにやってくるのを待っている。この意味で、イエスの「今」において、過去と未来が一つになっている。それは言わば「全時的今」である。このイメージ・ネットワークにおいては、アブラハムが一種の主役の座を占めている。特にそれが顕著なのは、「金持ちとラザロ」(ルカ一六19-26)の記事である。そこではアブラハムは言わば「神の代役」である(『イエスという経験』七七頁)。もっとも、そのアブラハム(とイサク、ヤコブ)は、本当にすでに死から復活して、今現に天上の祝宴の席に着いていると言えるのだろうか。(中略)確かに、今現に過去の死者が復活のいのちを生きているとイエスが考えていたと見ることには、相当の勇気が要る。しかし、前述の「金持ちとラザロ」のアブラハムは今現に復活のいのちを生きているばかりか、天上の祝宴の座についているとしか読むことができない。加えて、洗礼者ヨハネの問いに答えたイエスの言葉も、イエスが今現に「死者が起こされている」(マタ一一5/ルカ七22)と見ていたことを、誤解の余地なく証明している。その回答を与えるイエスが最後に「私に躓かない者は幸いである」と言っているのは偶然ではない。生前のイエスがそんな突飛なことを考えていたはずがないというような安易な思い込みでは、イエスという「躓きの石」は超えられない。>(p67~69)

 

この大貫氏の両書を理解する上で特に重要な3つのキーワードを挙げ、一部を書き写す。

1.イエスが「古代人」であって、その思考法が「神話的あるいは前論理的」と言われていること。
<本書がまず「神の国」に関するイエスの神話的・前論理的な発言を集めるのは、そこに含まれた神話的・前論理的な表象あるいはイメージの一つ一つに、「そのまま」真理性を認めるからではない。(中略)生前のイエス自身の思考の中で、それらが相互にどのように結びつき合って、意味のネットワークを構成していたかを明らかにすることである。私はこれをイエスのイメージ・ネットワークと呼ぶことにする。>(同、x)。
<わが国においても、一九六〇年代の末以来現在まで、それぞれの時代的文脈の中で、いくつかの優れたイエス研究が公にされてきた。しかし、それらの研究も、古代人イエスのイメージ・ネットワークと神話的・前論理的思考の再構成の点で決して十分なものではない。(中略)これまでのイエス研究の欠を踏まえながら、そこで蓄積されてきた非神話化の試みに対して、全く逆の言わば「再神話化」が試みられる(中略)さらにイエスの生活と行動および最期と原始キリスト教の成立の事情を確かめた後で(中略)可能な限り新しい非神話化を試みなければならない(中略)しかし、その新しい非神話化は、十字架上に破裂したイエスのイメージ・ネットワーク全体に対して行われるべきであって、個々の神話的・前論理的イメージに対して行われるべきではない。これが本書の提言である。>(同、xii~xiii)
<田川はそこに、古代人的な制約やイデオロギーの中にありながらも「『宗教』をつきぬけた根源的な意味を持ちうる宗教的ラディカリズム」を見る(中略)しかし、古代人イエスが「神の国」に結びつけていたイメージのネットワークは、田川においても問題にならない。なぜなら、「イエスにとって『神の国』は本質的な問題ではなかった。どうでもよかったのだ、と言ってもよい」(三一一頁)からである。>(p3)
※ちなみに関根正雄氏は古代イスラエル人の思考法は「プレロジカル」(論理以前)ではなく「エンピリコロジカル」(経験〔的・〕論理的)だとみたオルブライト説を支持している(『古代イスラエルの思想』〔講談社学術文庫〕p89、165~166参照)。イエスの場合も大貫氏の「神話的・前論理的」という言い方より「い経験的・論理的」という言い方の方が表現として適しているのではないだろうか。

 

2.その古代的思考法なり世界像を前提としての「イエスの自己理解」ということ。
ヨハネの遺産の3番目として、<預言者としてのイエスの自己理解がある。これを示すのがマタイ一 一章7-9節/ルカ七章24-26節である。(中略)
言うまでもないことではあるが、「神の子」「キリスト」「ダビデの子」「イスラエルの王」「主」など、現在福音書の中に繰り返し現れる称号は、イエスの死後の原始キリスト教会が、前述のキリスト教信仰の「標準文法」に向かって思考(専門用語で「キリスト論」)を発展させる中で生み出したものであるから、生前のイエスの自己理解とは関係がない。>(p36~37)

3.これはイエスの神関係についての重要語だが、「対面状況」ということ。
<後代(三世紀以降)のラビ文書になると、「天の父」という表現が頻繁に用いられる。ただしそこで、「天の父」に「子」として対応するのは、第一義的には、ユダヤ教共同体であって、個々人ではない。そのため、ほとんどの場合、「天の父」の前に「われらの」と付け加えられるのが通常であって、逆に個々人が一対一の対面状況で神に「わが父よ」と呼びかけることはきわめて稀なのである。それはラビ(ユダヤ教の教師)たちの感覚からすると、あまりに馴れ馴れしい呼びかけであったからである。つまり、イエス時代のユダヤ教もすでに「天の父」なる神の観念も表現も知っていたと思われるが、その特徴は家父長的な威厳、遠さであって、子に対する慈愛と近さではなかった。ところが、イエスの新しさは「天におられるあなたがたの父」という表現を超えて、「アッバ」(abba)と神に呼びかけて憚らなかった点にある。(中略)「アッバ」が神に対するイエスの最奥からの呼びかけであったと考えて間違いはない。ユダヤ教の「天の父なる神」が家父長制という社会の建前に縛られていたとすれば、イエスは正に逆に、どれほど威張った家父長であれ、そのような建前から自由にされて我が子と向き合うことがある、そのような家庭内の最も奥深い、親密な対面状況の中にこそ、神と人間の関係を表現するモデルを発見したのである。>(p75~76)
※大貫氏は「神」を「父」と呼ぶことについて次のように述べている。
彼(イエス)にとって神は、個々の人間に日常生活の今、ここで出会い、絶対的な服従を要求する意志であった。それは遠い神でありながら、人間にその意志が直截に理解できる近い神であった。この「遠くて近い神」(ブルトマン)の前に独り立たされた個としての人間の状況――これを新しく発見させるためにこそイエスは、最も親密な家庭生活の場において父と子の間で交わされる言葉に訴えたのである。イエスの「我が父よ」は、言葉の最も深い意味において「生きた隠喩」なのである。(中略)何故その隠喩が圧倒的に多数の場合「我が父よ」であって、「我が母よ」にならないのかと問われるのかもしれない。この点では「遠くて近い神」の遠さを表現するのに「母」はなじまないというのが私の意見である。その代わり、神の近さは、ルカ一五章8-10節(失われた銀貨の譬え)とマタイ二三章37節/ルカ一三章34節(エルサレムへの禍いの宣告)で、女性的な形象を用いて表現されている。(中略)神を「父」と言い、「母」と呼んでも、それは隠喩以上のものではない。(中略)神について人間が行うどんな言表も究極的には比喩的発言にならざるを得ないはずである。そして、それ――とりわけ隠喩――には当然、誤謬性が付きまとう。そこでたじろいだのがユダヤ教ラビたちであった。反対に、イエスはここでもタブーを破ったのである。彼によれば、神について端的な隠喩で語ることが、その誤謬性にもかかわらず人間には許されているのである。彼はそれを自らの決断と責任において、身をもって実行して見せた。「我が父よ」を実体論的に字句通りにしか理解できなかったか、あるいは意図的にそうしたユダヤ教指導者層によって、瀆神罪の嫌疑をかけられ、さらには十字架の刑死に引かれてまで。>(~「わが父よ――隠喩的真理の回復のために」~『隙間だらけの聖書――愛と想像力のことば』 〔教文館〕) ※本文では最初の文の「個々の人間」と「今」と「ここで」に傍点がふってある。

イエスの人となりについて。当然、1,2と重なる面がある。

<「およそ三十歳」(ルカ三23)の頃、後述する洗礼者ヨハネのもとへ参じるまでのイエスの生涯については、信頼にたる史料がまったくなく、確実なことは何一つ分からない。>(p22)※大貫氏はこの文の前で誕生について述べておられるが、イエスがマリヤの私生児である可能性については全くふれておられない。ちなみに佐藤研氏は私生児説には否定的だが、青年期に父ヨセフを亡くしたであろうイエスの「父への憧憬が、神への信仰と二重写しになっている様態があるのではないだろうか」と述べ、同様の説を述べている笠原芳光著『イエス逆説の生涯』に共感を示している(『イエスの父はいつ死んだか -講演・論文集ー』〔聖公会出版〕p50、53参照)。
さらに、イエスのリテラシー(識字度)についても、「ナザレという寒村には、まだ制度的な初等教育機関は存在しなかったと考えなければならない。」と指摘する一方で、ヨハネ7:15を無批判に受け取り、「少年イエスの理解力はすでに他の子供たちから抜きん出ていたことは十分に考えられる。」(p23)などと推断しておられる。さらに「一般論としても、読解のできる者が全く字は書けないというのも考えにくいから、イエスには筆記能力もあったと見るべきであろう。ただし、それはヘブライ語とアラム語についての話で、ギリシア語とラテン語までイエスが読解したかは疑わしい。」(p24)と、全く想像にすぎないことが連ねられている。字を書ける者が教師のようなことをして、何も書いたものを残さなかったとすれば、イエスは教団など作る考えなどさらさらなかったという論拠にはなるだろう。
<イエスが「神の国」に関連して編み上げるイメージ・ネットワークには、「天ー地ー陰府」という空間的な垂直軸が、すでに言及したイエスの「人の子」論の他にも、重要な役割を演じる。これはこれまでのイエス研究の中で、見過ごされてきた点の一つである。この垂直軸もイエスが洗礼者ヨハネから受け継いでいる遺産の一つと言える。>(p36)
<「神の国で最も小さな者」という表現は、ギリシア語の原語での言い回しから推すと、「神の国に〔現に〕いる最も小さな者」という意味である。そしてこれは、生前のイエスが神の国について抱いていたイメージと見事に符号するのである。後述するように、すでに天上では神の国が実現し、祝宴が始まっているからである。反対に、それは原始教会の思考図式にはうまく適合しない。(中略)イエスがいまや、ヨハネには不在であった「神の国(支配)」の福音を告知し始め、有名無名、大小さまざまな者たちがすでにその中に「いる」という現実がヨハネとイエスを決定的に区切っているのである。>(p41~43)
<ルカによる変更以前は、「私はサタンが稲妻のように天から落ちるのを見た」という、過去の一回的な出来事を報告する言葉であったかも知れない。その点はいずれであれ、その元来独立の言葉は生前のイエス自身の発言と考えなければならない。なぜなら、この言葉には原始教会のキリスト論的な関心がまったく読み取れないからである。仮にこのようなイエスが全く観客に留まる幻、しかもその内容は、直ぐに見る通り、ユダヤ教黙示文学と親和的な幻をイエスの死後の原始キリスト教会が創作したのだとして、それによって彼らはイエスが救い主・神の子・キリストである度合いを何ら高めることができないではないか。生前のイエスは全く受動的な立場で、サタンが墜落する様を見たのだ。「稲妻のように落ちるのを」とある「落ちる」は、原語のギリシア語では自動詞(のアオリスト分詞)であるが、多くの研究者が言うように、「神によって投げ落とされた」という受動態とほぼ同義である。つまり、ドラマの隠れた主体は神なのである。>(p45)※このテキストはルカ一〇章17-20節。大貫氏が訳したゲルト・タイセン著『原始キリスト教の心理学――初期キリスト教徒の体験と行動』〔新教出版社〕では、「原始キリスト教の発端にあるのは幻視である。また史的イエスにとっては、おそらくサタンが天から墜落する幻を見たこと(ルカ一〇18)が一種の召命経験であった。」と述べられている(p215)。
<19-26節は、私の判断では、生前のイエスその人の発言である。(中略)イエス時代のユダヤ人は、家庭での普通の食事は机と椅子で取ったが(マコ七28参照)、客を招いたり、客に招かれたりしての正餐では、長椅子に横臥しながら、その都度給仕が運び込む料理をそれぞれ取り皿に取り分けながら飲食した。最後の晩餐もその通りで、(中略)レオナルド・ダ・ヴィンチの描く「最後の晩餐」の構図でイメージしては間違いである。(中略)イエスの発言のポイントは、その天上の祝宴に移されたラザロと陰府の業火の中でもだえ苦しむ金持ちを対比させるコントラストの激しさにある。(中略)イエスが業火の燃え盛る陰府(地獄)について語ったことを訝るべきではない。「地獄の消えない火」と「蛆」については、マルコ九章43、48節でも語られている。この点でも、イエスは古代的・神話的思考の人だったのだ。イエスが言おうとするコントラストにとっては、「天→地→陰府」というイメージの垂直軸が重要なのである。>(p54~56)※このテキストはルカ一六19-31節の「金持ちとラザロ」の話。前半の食事の仕方と後半の地獄の話とは関係ないが、前半の内容は、「ダ・ヴィンチ・コード」が根本的に虚構であることの説明に使える。
<これは間違いなく、生前のイエスの発言である。イエスの趣旨は明らかである。アブラハム、イサク、ヤコブは現に生きて、すでに天上の祝宴の席に着いているのである。彼らが死から復活したことは、ここでも明言はされていないが、当然の論理的前提なのである。ここでも、イエスの思考は神話的・前論理的である。しかし、そのつまずきを性急に非神話化してしまわない忍耐が必要である。(中略)今新たに成立しつつあるイエスの神の国のイメージ・ネットワークには、「天使」もしっかり組み込まれている。前節で見たラザロは、死後、天使たちによってアブラハムのもとへ運ばれたのである。(中略)イエスはある時、誹謗に切り返して、「神の国のために結婚しない者(文字通りには、「自らを去勢した者」)もいる」(マタ一九12)と言い放っている。「欲情を抱いて女を見る者は」という有名な言葉(マタ五28)も、この関連で読まれるべきである。おそらくイエスは、「神の国」で人間は性の営みから解放されて、「天使のようになる」と信じていたのである。>(P61~62)※最初のテキストはマルコ一二18-27節の26-27節。
<イエスの最後の言葉(60節)は、最初から「死人たち」と複数形になっている通り、目の前の男の父親の葬儀という個別ケースを超えて、もっと一般的なことを宣言しているのである。つまり、「死人たちのことは仲間の死人たちに任せておきなさい。君がそれを心配することはない。君は直ちに神の国の告知に出て行くべきだ」というのである。ここでの「死人たち」は比喩的ではなく、どこまでも現実の死人たちのことである。イエスがなぜこんなことを言えたのか。その理由は明らかであろう。すでに見たように、彼はすでに死人が甦って「神の国」の祝宴に着いているのを見、また、間もなく他の死人も甦るのを信じていたからである(Ⅲ章四参照)。>(P112~113)※<生前のイエスの「今」は、その前に過去があり、その後に未来が続くような現在ではなかった。アブラハム、イサク、ヤコブらの大昔の族長たちはすでに復活して、天上の「神の国」で宴席に着いている。彼らは、今現に地上でイエスのメッセージを聞いている者たちが、そのメッセージを受け入れて、神の国での彼らの宴席に加わるのを待っているのであった。さらには、間もなく彼らは「その人」として地上へ到来し、「神の国」の祝宴に入る者と入らない者との間を「さばく」ことになるのであった。これを時間論の問題として言い直せば、過去は過去であることをやめて未来へ先回りし、そこから現在へ向かってきているのである。イエスの「今」においては、過去と未来が一つになっている。私はこの「今」を「全時的今」と呼ぶことを提案した(中略)それは時間と対立し、それを超越するような「永遠の今」ではない。(中略)イエスこそはその全時的「今」を生きた人間であった。>(p240)※<救済史や摂理史の視線は常に過去から現在へ、現在を超える場合には、さらに現在から未来へと向かう。(中略)時間と歴史が終わりから逆向きに読まれることは決してない。イスラエルの「選民思想」と関わるモーセ五書(あるいは六書)の歴史観がその最も早い、しかも古典的な例である。(中略)イエスに前後する時代のユダヤ教黙示思想の歴史観(中略)同じ時代のヘレニズム世界で最も主導的な世界観であったストア哲学の歴史観(中略)新約聖書の中で、これに最も深く呼応しているのは、ルカ福音書と使徒行伝の二部作が示す歴史観(中略)これらに例を見る普遍的な救済史観あるいは摂理史観は、壮大な規模での神義論となっていることによくよく注意しなければならない。(中略)イエスがそのような救済史観あるいは摂理史観と完全に決別していたことは、すでに述べた通りである。それは同胞ユダヤ人たちに向かって、「すでに斧が木の根元に置かれている」と宣言した洗礼者ヨハネからイエスが受け継いだ遺産であった(中略)彼はそのような救済史観、摂理史観から解放されていた。彼の「神の国」が、否、「全時的今」が民族の救済史と個人の生活史の線状的連続性に突き付けた切断は、彼の一連の譬え(特に決断へと呼びかける譬え)と「神の国」の裏面としての「さばき」に関する言葉にあまりにも明瞭である。この切断のゆえにこそ、イエスはあらゆる神義論からも自由だったのだ。病苦に加えて、イデオロギー的にも「選民イスラエル」の救済史から排斥されていたさまざまな病人や障害者たちに彼が示した行動を想い起こそう。>(p258~260)
<(ルカ 一 一 20/マタ一二28)これは生前のイエス自身が、自分の悪霊祓いのわざを事実としてもちろん認めた上で、その意図を明言したものとして、きわめて重要な発言である。(中略)イエスの治療行為は、さまざまな病気や障害を負う者たちと出会うその時その場で、しかも無報酬で行われている。この非職業的で、アドホックな特徴において、イエスの治療行為は正規の医者のわざでなかったのはもちろんのこと、当時の民間治療の枠内でも特異な現象であったに違いない。加えて、イエスは「神の国」を宣べ伝える遍歴生活の途上でそうしている。この内的な動機づけ、意味づけの違いこそ、最も肝心な点である。イエスは今や始まっている「宇宙の晴れ上がり」の下、地上の現下の庶民たちに生活を、サタンとその手下の魑魅魍魎から解放するために闘っている。イエスが「十二人」を「神の国」の宣教に派遣するに当たり、何よりも悪霊祓いと病人の癒しの権能を分与しているのはそのためである(中略)イエスの癒しと悪霊祓いの活動をルカ一〇章18節に記された「サタンの墜落」(Ⅲ章二)との関連におく解釈は、欧米の研究では早くから見られるもので(例えば、G・ボルンカム)、最近は多数意見になりつつある。しかし、日本では、この関連に注意を向けた研究はこれまでなかった。独り田川建三がイエスの「宗教的熱狂」(癒しのわざ)とサタン論との関連を的確に指摘しているが、「神の国」がイエスにとっては「どうでもよかった」という判断が災いして、イエスの内的な動機づけが不明瞭なままで終わっている(『イエスという男』三一三頁以下、三二四ー三二七頁)。(中略)遠藤周作のように、これらの奇跡物語は「リアリティーに乏しい」と、切り捨ててよいのか。(中略)八木によれば、イエスは「ただの人として自らを自覚」(『イエス』一八三頁)していたのである。「ただの人」が「ヌミノーゼ」と受け取られたとは、決して分かりやすい話ではない。>(p158~159)※<イエスは別段自分を超人間的存在として自覚していたわけではなく、「人の子」語句でもって人間存在の根底を語り告げたのである。すなわちイエスはただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げたのである。そこには何も秘密めいた・大袈裟なものはない。しかしことさら「人の子」という言い方をしたのは、神の支配や神の国という言葉には盛り切れない、あの根底の人格的な面のことを、言い表わす必要があったからであろう。罪の「赦し」や、安息日の「主」や、終末の「審き・救い」が問題となる場合、特にそうだったのであろう。>(八木誠一著『イエス』〔清水書院〕p183)
<幼児の存在それ自体に至上の価値をイエスが認めたとするのは、あまりに近代主義である。子供のそのような至上価値が発見されたのは、やっと近代のことであって、古代人イエスはそのはるか手前にいる。>(p184~185)
イエスが「神の国」について編み上げたイメージ・ネットワークは、彼自身にとって主観的にはリアルこの上ないものであり、ほとんど最期の直前まで彼の言動を動機づけてきた。しかし、そのイメージ・ネットワークの発端となった「サタンの墜落」と「天上での祝宴」が、客観的に見て神話であることは紛れもない。古代であれ、現代であれ、生身の人間が雲の上に踏み止まって飲み食いはできないのである。イエスが見た「サタンの墜落」(ルカ一〇18)も「幻」であったのだ。イエスの絶叫はその「幻」を現実の直中で生き抜こうとして破裂した者の叫びに他ならない。>(p236)
イエスは天と地について語り、サタンと悪霊について語り、悪霊を祓って病気を癒し、死者の復活を信じていたが、これらすべてはあまりにも古代的な物の考え方の枠内にある。他方、私たちが幼少時から成人するまで教育されて身につけた宇宙観、生命観、病理論などはこれとはまるで異なる。そのどうしようもない違いを飛び越えて、古代人イエスと同じ神話的な物の見方や考え方をすることはできない。それでも敢えてその無理を犯すことが信仰だと言うならば、信仰は力技に堕してしまう。>(p238) ※イエス自身の「復活」については、大貫氏は次のように述べている。
<「十二人に」、否、「五百人以上の兄弟たちに一度に現れた」まで同じ幻視体験を言っているとすれば、これはもう集団幻視体験の話となり、さすがに信じがたい。むしろポイントは別のところにあると考えなければならない。すなわち、ペトロの個人的な体験として始まった何かが、一定の時間の経過の中で、「十二人」(これにはペトロも「裏切りものユダ」も計算に入っているので、最初にケファ、次に十二人に、という5節の表現は実は奇妙な言い方である)、さらには「五百人以上の兄弟たち」に共有されていったプロセスの方が問題なのである。
では、ペトロにおいて何が起きたのか。私たちはその答えをどこか遠くに探す必要はない。前掲の「信仰告白伝承」の前半(3b-4節)に、「キリストは聖書に従って、私たちの罪のために死んだこと、そして埋葬されたこと、そして聖書に従って、三日目に死者たちの中から起こされていること」とあるが、このことがペトロに「分かった」という出来事がその答えである。それは一つの覚醒体験、目覚めの体験であったと言うことができる。ペトロを筆頭として、イエスの処刑後に残された者たちは、いずことは知れず逃亡先に蟄居して、十字架上に絶叫した瞬間のイエスに勝るとも劣らない「謎」の暗黒の中でもがきながら、必死でイエスの残酷な刑死の意味を問い続けたに違いない。その導きの糸となり得たのは、当然のことながら、(中略)旧約聖書だけであった。(中略)イエスの刑死を予め指し示していた予言として読み直され、逆にイエスの死は自分たち、つまり、そう読み直しつつある弟子たちが父祖伝来の戒め(モーセ律法)に違反して犯してきた多くの「罪(複数)」をイエスが代わりに担ってくれた出来事、すなわち、贖罪の死として受け取り直されるのである。ここで起きているのは、多少専門的な言い方をさせていただくと、すぐれて解釈学的な出来事である。(中略)問う者が答えを発見したと思う瞬間は、その伝承に対する全く新たな読解が成立する瞬間と同じなのである。その瞬間、世界全体が変貌する。自己と世界についての新しい了解が出現するからである。何度も読み返していたはずの文学作品が、否、他でもない聖書が、ある時の読書で自分の人生を変えてしまうほどの力をもって迫ってくるのを体験した方も少なくないであろう。まずペトロに起きて、次第に仲間たちに共有されていった体験もそれと同じように考えることができる。「謎」の死を遂げたイエスが、いまや新しい相貌で「現れて」きたのである。(中略)未来への展望と過去の読み直しと、この二つのことが弟子たちに同時に起き始めた稀有な瞬間こそ、いわゆる「復活信仰」が成立した瞬間に他ならない。この信仰と共に原始キリスト教も成立したのである。>(p219~221)※青字で示した「ここで起きている」という言葉は、イエスの死が「贖罪の死として受け取り直される」ことを指している(p221)。従って「解釈学的な出来事」はイエスの「復活」を説明するものではなく「贖罪信仰」の成立と使徒たちの「復活顕現」の体験とが結びつけられて、その説明として言われている。しかし、イエスの死を「贖罪死」として解釈し、「分かった」と覚醒したこと(p220)によってイエスの復活体を幻視するという体験につながるのだろうか?しかもペトロ個人から他の多くの使徒に伝染し得たのは何故か?と言うか、大貫氏はペトロ個人には幻視を容認するが、その他大勢については容認していない。ならば彼らの「顕現」は解釈だけなのか?そもそも「五百人以上の兄弟たち」という文言を事実として受け入れなければならないのだろうか?荒井氏は、これはパウロの加筆の可能性を指摘している。すなわち、第一コリント15章3節以下の「信仰告白定型」(ケリュグマ)と呼ばれる伝承については、「5節までは確実に古い伝承に遡ります」と言われている(『イエスと出会う』〔岩波書店〕p28)。大貫氏の場合、「復活信仰」の成立はまた別のこと、贖罪信仰の成立から「弟子たちの視線は未来に向かった」(p223)となり、昇天(高挙)や再臨といったキリスト論が生まれ、「同時に、弟子たちの視線は過去にも向かった」(p224)と言われて、十字架の刑死に至るまでの生前のイエスの言動が「キリスト論的な視点から読み直され」、「旧約聖書の予言を成就するものとして、新たに語り直され」、旧約聖書に対する「キリスト教的解釈」がなされることを前提に成り立ったと言われている(p225)。問題はイエスの遺体についての論考を欠いていることだ。その方面は同じ荒井門下の佐藤研氏が抜きん出ている。しかし私自身は、荒井氏や佐藤氏と同じくイエスの墓が空であったことを史実とみなすカンペンハウゼンの『空虚な墓 キリスト者の兵役』を過去に読んでみたが、その訳者の一人が蓮見和男氏であることからも察せられるように護教的であり評価できない。佐藤研氏は「訳は判りにくい点あり」と指摘している(『禅キリスト教の誕生』〔岩波書店〕p93の注)。

次にイエスの自然観に関して。
<サタンが稲妻のように天から落下する(ルカ一〇18)のを見た後のイエスの目には、あたかも雷雨のあがった直後の清澄な大気の中のように、今や天地万物が変貌し、まったく新しい姿で立ち現れる。最近の宇宙物理学がいわゆるビッグ・バンの文脈で使う表現を借りれば、正に「宇宙の晴れ上がり」である。(中略)イエス自身にもその時初めて開かれた天地万物の新しいイメージなのだ。その印象はルカ一二章22-32節/マタイ六章25-33節に最も鮮明である。(中略)
この記事もマルコ福音書にはなくて、ルカとマタイにしか見られない。従って、ルカもマタイもQ資料に取材しているわけである。両者の間に、文言レベルの微妙な違いはあるものの、内容上の違いはほとんどない。それでも研究上は、ルカの本文の方が元来の形により近いとみなされている(中略)しかし、このルカの本文もそのまま全体が生前のイエスの発言だとは考えにくい。ここでは細かな論点は別として、明らかに29節は22節の繰り返しであり、それ以降の部分が事後的に拡大されたものであることを強く示唆する。(中略)印象的なのは、空の鳥、野の草花が擬人化されていることである。(中略)イエスの目には、空の鳥と野の草花が人間と共なる被造物として、生かされてあるいのちという根源的な現実を啓示するものとして映っている。しかも、この被造世界のイメージには「悪」が存在しない。(中略)からすを指差して、それを生かされてあるいのちという根源的現実への啓示として受け取るようにと求めるイエスの発言は、ユダヤ人の常識を逆なでするものであったに違いない。モーセ律法が設けた浄と不浄、善と悪、価値と無価値の区別が一挙に無化され、すべてが神の無条件の育み、無条件の肯定の下に置かれている。(中略)伝統的な知恵の権化の名を持ち出しながら、それより大いなるものを指示しているのである。「ソロモンより大いなるもの」、それはすでに前節(中略)で取り上げたルカ 一 一章31-32節/マタイ一二章41-42節の場合と同じもの、つまり、今すでに天上で始まっている神の国を指している。(中略)仮に旧約聖書の中で、目下のイエスの自然観に最も近いものを探すとすれば、むしろ詩篇一〇四篇とイザヤ書三五章を挙げるべきである。(中略)仮に詩篇一〇四篇を広い意味で「知恵の詩篇」と呼び得るとしても、やはりそこにあるのは行動への指針ではない。むしろ、天地万物を神の創造の秩序と見て、その中で万物が現に無条件で肯定され、育まれているとする見方、U・B・ミュラーの表現を借りれば、「創造神学的な普遍救済主義」なのである。以上のような変貌した自然、その新しいイメージは、イエスがこの後、公の活動に出て行き、最後は十字架に絶命するまで、失われることはなかったと考えられる。>(p69~74/p14~15参照)
<イエスと同労者たちがその象徴的な示威行為に込めた意味は、犬儒派の社会哲学的なメッセージとは根本的に異なって、すでに天上に祝宴として始まっており、現に地上でも実現しつつある「神の国」がどのようなものであるかを身をもって示すことであった。「宇宙の晴れ上がり」の中で、蒔かず、刈らず、紡がずに生かされている空の鳥と野の草花のように、「アッバ父」なる神への全的な信頼によって生きることである。絶えることのないクロノスの中を、予めの計算と配慮によって何とか生き延びようとする通常の生活者から見れば、これ以上の狂気の沙汰はない。>(p144)
※「神」や「神の国」に関する内容と重なる面がある。

次に「イスラエル」について
<イエスは洗礼者ヨハネの弟子として、すでに「選民イスラエル」が根源的な廃棄に定められているという認識を共有していた。(中略)もしその再生があり得るとすれば、それは偏えに、徹底的に新しい神の行為、神の側からの無条件の赦しと恵みのわざ、つまり、新しい創造のわざである他はない。イエスは正にその新しい創造のわざが今、天上の祝宴と「宇宙の晴れ上がり」と共に始まっていると信じている。神のその新しい創造のわざの中で再生することへと、現下の「選民イスラエル」も招かれているのである。イエスが想い描く再生イスラエルのモデルは、出エジプトの民ではなく、創造主ヤハウェの支配に服する民である(イザ三五章)。>(p136)
<「選民イスラエル」の再生は、エルサレムを離れて、異邦人を包括する形で実現されるのである。このように、イエスは一方では「神の国」を異邦人も含めた普遍的な共同性の回復として視野に収めていながら、他方では「十二人」の選抜と派遣が示すように、自分の使命を「選民イスラエル」の地、すなわち、パレルチナに限定している。(中略)残された時間の中で、自らの五体をもってめぐり歩くことのできる範囲が限られていることを、彼は知っていたのである。(中略)イスラエルの家の失われた羊のもとへ行け」が生前のイエスの発言である可能性は十分以上に大きいと言わなければならない。>(p137~138)
※十二弟子については、<最近の研究では、「十二人」の選抜に史実性を認めるのがほぼ定説になっている。「 裏切り者」ユダがその一人であったことも史実とみなされなければならない。>(p135)と述べられている。ただし、<生前のイエス自身が彼らを「(十二)弟子」と呼んだかどうか、ましてや「十二使徒」と呼んだかどうかは、実は定かではない。確実なことはただ、彼が「十二」の数字に込めた象徴的な意味である。(中略)イエスは十二人の同労者を選抜することによって、自分が「選民イスラエル」に派遣されていることを宣言したのである。(中略)生前のイエスの自己理解が派遣(使命)預言者のそれであったことが今一度明らかになる。>(p135~136)と記されている。
※「神の国」に関する内容と重なる面がある。

 

次に「神の国」について
<「神の国」(「天の国」はマタイが好んで行う言い換え)のメッセージは、ヨハネの遺産ではない。それは彼から独立後のイエスの活動の中心テーマである。因みに、荒井献は、すでに紹介したように、イエスにおける「神の国」は洗礼者ヨハネの影響下にあった段階の思想で、次第にそれを脱却していったと言うのだが、他方でマタイ三章2節はマタイの編集の筆に帰す定説に準じている(『イエスとその時代』五四ー五五頁)。マタイ三章2節以外には、ヨハネが「神の国」について語ったとする伝承はないから、荒井の立論は自己矛盾をきたしている。もちろん、「神の国」(厳密には「神の支配」)という用語そのものは、イエスが初めて作り出したものではない。「ヤハウェ(邦訳「主」)は王」、あるいはヤハウェの王的支配という観念は、すでに詩篇二、二九、四七、九五ー九九、一四五、一四六篇、イザヤ書四一章21節、四三章15節、四四章6節などに繰り返し認められる。しかし、問題はそのような既存の用語と観念に、イエスが盛った新しい内容であり、それについて彼が編み上げた新しいイメージのネットワークである。事実、そこでは神は「父」(アッバ)としてイメージされることがあっても、決して「王」としてイメージされないのである!>(p38
※佐藤研氏はイエスの「神の国(神の支配)」について以下のように述べている。青字は傍点付き。
<ヨハネの告知の根本は「審きのメッセージ」にありました。しかしイエスの場合は、「救いのメッセージ」の勢いの方が勝っています。つまり、様々な要素がほとんど対照的に異なっています。これは、単にイエスがよく考えてこうしたというよりも、彼の中に到来したある重大な認識の飛躍がこれを必然化したのだろうと思います。その飛躍の内実を一つの言葉で言うと、彼が後に何度でも言っておりますが、「神の王国」(あるいは「神の支配」)が接近・開始したというリアリティであろうと思います。実際、これ以降活動していくイエスは、この「神の王国」と呼ばれる根源現実の活性化への応答であると考えていいと思います。もっと正確に言いますと、「神の王国の成就プロセス」が始まってしまったのでしょう。「神の支配」そのものは、隠れた形ではあれ、もう世の始めから当然あったわけで、全くなかったわけではない。ただそれが顕在化しなかったのです。その顕在化が完成に向けて始まった、ということだろうと思います。イエスの場合は、このことを単に人々に「教えた」というだけではありません。この「神支配の開始」の事態を、その行動的振舞いを通じて、現実に造り上げていったのです。これがイエスの最もオリジナルな点です。言うだけならまだいいのですが、それをやってしまったということです。行ったということで初めて、新しい事態が目の前に現出する。そういう次元に自ら突入していったのです。>(『イエスの父はいつ死んだか ー講演・論文集ー』〔聖公会出版〕p7677
<イエスの言葉の中でもっとも特徴的なものの一つに、「神の支配が近づいた」(マコ一15、ルカ一〇9とその並行記事など)というものがあります。「支配」という言葉は「バシレイア」という原語で、「王国」とも訳し得ます。では、「神の支配」ないし「神の王国」とは何か。これは、初期ユダヤ教(紀元前五世紀ころから紀元後一世紀のユダヤ教をしばしばこう呼びならわす)の中でも、とりわけ黙示思想の中で培われた表象で、終末時、つまり世の終わりに顕現する、決定的・究極的な神の統治のことです。この表象は一般に次のような要素を備えています。第一に、「不義への神的な審判」。そもそも「神の支配」ですから、神以外のもの、つまり「不義なるもの」がもはや支配するはずがないのです。「不義」とは、悪魔・悪霊のことであり、暴虐をふるう異邦人支配者や為政者や不敬虔なる者のことであり、また人間の中に巣くう罪のことです。こうしたものが裁かれ、決定的に滅びます。同時に、この「全宇宙の崩壊と新しい天地の創造」が到来します。そして神の民としての「新しいイスラエル」が実現し、「神との永遠の愛の交わり」が開始します。それはまた、死を克服した「永遠の生命」の現出でもあります。つまり、イエスが「神の支配」と言うとき、このような表象連合を前提にしていると思われます。もっとも彼の場合、選民イスラエルに対する悪玉の「異邦人」というナショナリスト的な図式はほとんど存在しません。イスラエルの排他的ナショナリズムは強く否定されており、言行のイスラエル体制に関しては、むしろ滅びが告げられています。こうした「神の支配」が「近づいた」と言うわけですが、それは「近づいてしまった」とも訳し得る、異様なまでになまなましい接近を意味しています。ルカ一一章20節とその並行記事を見れば、それは「神の支配は到来した」とすら言えるリアリティーを持っていることが分ります。あと待つべきは、その「到来」の完成だけです。一言で言えば、「神の支配はいま開始した」と言ってよいのです。こういう感覚を「終末論的」感覚と言います。ある最後的・決定的な出来事がまもなく起こる、あるいはすでに起こり始めているという感覚です。イエスの場合は、その「決定的出来事」なるものがとりわけ「神の支配」という標語で表現されているのです。ただしイエスにおいては、それがまもなくやってくるというよりは、すでに開始してしまった、という点に強調があります。事実、これがイエスの「神の支配」にまつわる時間感覚の最大の特徴なのです。現代の私たちの時間観とは大きく異なっているようですが、歴史上のイエスが決して普遍妥当の無時間的な真理を告知したのではないことは、忘れてはならないことです。と同時に、イエスの比類ない独自性は、その「神の支配」開始の事態を自らの全身で行動的に告知していった、あるいはその事態を行動的に創造していったことにあります。裏を返せば、イエスの「使命」とは、「神の支配」の現実を行動的に創造し、同時に告知することにあった、と言えることになります。>(同、p9092
<極めて大事なことは、この食卓の空間が「神の支配の開始する空間そのものであったということです。イエスとの食卓の交わりにおいて、将来、終末時に可能になるはずの自由と愛が、今、すでに味わえるのです。先程の「神の支配」の構成モチーフに即して言えば、「神との愛の交わり」がもう現存するのです。そもそも、神の王国の到来をそこにおける食事の席のイメージを先取りしつつ描くのは、初期ユダヤ教の伝統でした(マタ八11とその並行記事、マコ一四25、ルカ一四1524、クムラン文書の「会衆規定」など)。つまり、イエスにとって、ガリラヤの被差別グループや没落民と共同の食事を持つということは、彼らを無条件に救う「神の支配」が始まったことを行動的に告知する、一典型形態だったと言えるのです。(中略)カーニバルでは現実空間とユートピア空間が一時的に相即するのです。これは、イエスの食卓空間に翻訳すれば、差別を撤廃した共同の食事の席が、神の王国の開始の現実と相即するということになるのです。さらに付加すれば、このような食事の席は同時に、イエスの教えの場でもあっただろうということです。すでにたとえ話に関しては、このような席から語られたと想定した学者がおりました。しかし、たとえ話だけに限定する必然性があるわけではありません。私は、いわゆる倫理的な要求の多くも、こうした場を想定したほうが分かりやすいように思うのです。「あなたたちの敵を愛せよ」(マタ五44とその並行記事)とか、(中略)とかいう言葉は、カーニバル的な時間の興奮を背景にしてみると、より理解しやすいのではないでしょうか。少なくともこういう言葉は、ある極度の高揚、勝利感を背後に持たずしては、聞かれえないと思えるのです。つまりこれは、すでに存在しているカーニバル的な空間を至るところで現実空間にせよ、おまえたちが「新しいイスラエル」なのだ、勝利は間違いない、不義に負けるな、というメッセージなのです。この点から観察すると、イエスの活動全体が、実はカーニバル的な生命原理の貫徹であったことが分かります。>(同、p104105
(以下、再び『イエスという経験』に戻る)
<「子供」に当たる原語のギリシア語(paidion)は中性名詞である。ギリシア語の中性名詞は例外なく常に、主語になる形(主格)と他動詞の目的語になる形(対格)が同じ形になる。そのため、目下の場合も、(1)神の国を子供が受け入れるように受け入れる者(主格説)と、(2)神の国を子供を受け入れるように受け入れる者(対格説)(荒井英子)の二通りの解釈が可能となる。福音書記者マルコは(2)の意味でこの文章を記している可能性が大きい。というのは、目下の箇所に先立つことほど遠くない九章37節に、「これらの子供たちの一人を私の名のゆえに受け入れる者は、私を受け入れるのだ」という文言を記しているからである。(中略)しかし、生前のイエス自身が(2)の意味で目下の言葉を語った可能性はほとんどない。(中略)イエスは子供をむしろ彼らの行為の側面から視野に入れていることを見逃してはならない。彼らはイエスのもとへ、来たがり、欲しがり、もらいたがる行為のモデルなのだ。「神の国」はそのような者たちのものなのだ。「そのような者たち」とは、自分自身の価値についてあれこれ思い悩まず、「明るい無関心」の内に生き、「神の国」を欲しがり、求める者たちのことである(マタ七7。イエスが「そのような者たち」のモデルとしてあどけない子供を抱き上げたのは他でもない、「神の国」は王権の国ではなく、「アッバ父」なる神の国だからである。>(p184185
<イエスは何のためにエルサレムに上るのか。折しも過越祭の時期であった。(中略)通常のユダヤ教徒と同じ思いで上ったはずはない。むしろ彼は、自分の「神の国」のメッセージを、「選民イスラエル」のそれまでの運命と最も深く結びついてきた民族の首都で、できるだけ多くの人々に向かって公にする絶好機としてそれを利用したのである(G・ボルンカム)。それはきわめて作戦的な選択であった。この場合、さらに注意を要するのは、イエスが思い描く「神の国」とエルサレム(特に神殿)の関係である。彼はやがて地上に「神の国」が最終的に実現する時には、エルサレム神殿がその中心となると考えていたのだろうか。(中略)それがイエス自身の期待であったとは考えられない。なぜなら、彼が宣べ伝える「神の国」には、「選民」を自認する一部のユダヤ人よりも東西の異邦人の方が先に入り、祝宴の席に着くのだから(マタ八11-12/ルカ一三28-29、前述Ⅲ章三の1参照)。しかも、その宴席は王侯貴族の宴席ではなく、農民の宴会としてイメージされているのだから。「神の国」は「農村」なのだから(Ch.プルシャルト)。明らかにイエスは、「神の国」の中心がエルサレム神殿ではないことを宣言するためにこそ、エルサレムに上ったのだ。エレサレム上京は一種の示威行動であったと考えるべきである。イエスがエルサレム城内に子ろばに乗って入った行為(マコ一一1-11)も同じ示威行動の一環として良く理解できる。おそらく、その際イエスはゼカリヤ書九章9節「見よ、あなた(エルサレム)の王がくる。(中略)」という一節を意識していたと思われる。(中略)イエスの主観的な狙いはここでも、(中略)自分自身を指示することではなく、彼が仕えている事柄、つまり「神の国」がどのようなものであるかを指示することであった。すなわち、子ろばがメッセージの担い手なのだ。それは過越祭の時には平素に増した軍勢でエルサレムの治安維持に努めたローマ軍に対する「対抗デモ」(G・タイセン)であると同時に、そのローマに対する反乱を尖鋭化する一方の政治主義的メシア運動(Ⅱ章二の1)に対する「対抗デモ」でもあったと考えられる。(中略)その後のエレサレムでのイエスの活動は、ガリラヤでのそれと同じように、ほとんど何の成果も挙げなかったものと思われる。(中略)こうしてイエスは今や、エルサレム神殿そのものが間もなく除去されることを宣言したのである。いわゆる「神殿冒瀆」の過激な行動はその宣言を象徴的に実践するものであった。今や、イエスの「神の国」のイメージ・ネットワークが高揚し始める。>(p194198
<福音書は複数の箇所で、イエスが自分で神殿を破壊して、その後三日で新しい神殿を再建すると言い放ったことを伝えている。(中略)それを最高法院で証言に立ったユダヤ人たちの「偽証」だったとしたいマルコ(一四57)とは裏腹に、生前のイエスその人が事実そう発言したのだと考えざるを得ない。神殿境内から商人と客たちを追い出し、加えて神殿破壊を予言したイエスの行動が、実際のところ、神殿警察その他の警備を尻目にどうして可能だったのか、(中略)私たちにとって重要なのは、ここでもイエスの動機である。(中略)すでに天上の祝宴として始まっている「神の国」が間もなく最終的に(マコ九1「力をもって」!)地上に実現する時、その時には目の前の「手で造られた神殿」が除去され、「手で造られたのではない別の神殿」、すなわち「神の国」によって取って代わられる。これがイエスを支えた動機である。イエスは、福音書記者たちが前記の箇所で間接的な報告として記しているように、自分で目の前の神殿を破壊すると言ったのではない。「神の国」、とはつまり「神」によって除去されるだろうと言ったに違いない。「ああ、エルサレム、エルサレム」で始まる前述のイエス自身の憤慨(ルカ一三34-35/マタ二三37-39)の中に、「見よ、お前たちの家(神殿)は見捨てられる」とあった通りである。それにしても「三日後」に「神の国」が実現するとイエスが考えたのみならず、公に言い放ったとは! しかも、当然のことながら、エルサレム神殿が崩壊する時、ローマを含む周辺世界はそのまま、とイエスが考えていたはずはない。では、それはどうなるのか。イエスはその点について何も言わない。彼の意識はパレスチナという局所に集中しているからである。(中略)イエスの「神の国」は一体どこに実現するのか。エルサレムではないとして、ではどこなのか。それは地上の限られた「どこか」、「あそこに」あるいは「ここに」、目に見える形で到来するものではない(ルカ一七20-21)。それは文字通り「ユートピア」(元来、ギリシア語からの造語で ou topos=「存在しない場所」の意)なのだ。なぜなら、それは宇宙大のものだからだ。「神殿冒瀆」のもの凄い興奮の中で、イエスの「神の国」のイメージ・ネットワークもここに高揚の頂点をきわめたと言えよう。>(p199201
<イエスは自分に迫り来る死の危機を表明しているが、その死と彼がここで待望している「神の国」の到来の間には何の因果関係もない。(中略)その「神の国」は独りイエス自身にとって慰め、あるいは、救いとして待望されている。イエスの関心事は自分が「神の国」の祝宴に与って、ぶどう酒を再び飲むことにある。(中略)語っているイエスはその祝宴のホストではない。他の者たちがその祝宴に着けるように仲介の労さえ取る気配がない。そもそも、その祝宴で弟子たちと再び相見えるのかどうかも不明のままである。つまり、一言で言えば、目下の言葉(一四25)には、キリスト論的な関心が全く認められないのである。(中略)マルコ一四章25節は元来22-24節とは独立のもので、生前のイエス自身が「最後の晩餐」の席で語った言葉とみなされねばならない。(中略)明らかなのは、イエスが死の危機を予感していることである。しかし、彼は同時になお、近未来における「神の国」の到来を望見している。「神の国で新たに飲むその日まで〔は〕、・・・・もう決してないだろう」という言い方にその両方が含まれている。(中略)マルコ九章1節(中略)イメージの上でも文言の上でも、目下のイエスの発言との類似性が著しい。(中略)明らかにイエスは殺害前夜の「最後の晩餐」の席で、一方では迫り来る死の危機を感じ取りながら、他方では、これまで宣べ伝えてきた「神の国」が、後三日で来ると断言してしまった通りにはなりそうはないものの、なお「力をもって」到来するに違いないと信じている、あるいは、そう信じようとしている。>(p205206
「最後の晩餐」の席で始まったイエスの揺らぎは、(中略)彼が祈った懸命な祈りでは、はるかに鮮明である。(中略)この場面に示されるイエスの苦悶それ自体について、その事実性を疑う理由はないと思われる。誰かがそれを見ていたのだ。(中略)私たちは、正にこの期に及んで「アッバ父」、すなわちルート・メタファー2がイエスの口をついて出ていることに注意しよう。それはすでにイエスのさまざまな譬え話を生み出してきた。それが今、イエス自身の神への直接の呼びかけの中に現れる。それは、「最後の晩餐」がルート・メタファー1から派生した一連の会食の最後のものであったことに並行して、ルート・メタファー2の最後のものである。ここでは二つのルート・メタファーが出会っている。もちろん、この出会いはすでに「放蕩息子」の譬え(中略)、「金持ちとラザロ」(中略)の話でも起きていた。しかし、イエス自身の生において二つが合体したのは、殺害前夜のこの時を措いて他にない。(中略)イエスは死それ自体を恐れたのではない。自分に迫りつつある死の意味が見えないことに恐れ、もだえたのである。それは、彼がそれまで「神の国」について編み上げてきたイメージ・ネットワーク、それによって自分の言動を動機づけてきた意味のネットワークの一体何処に「収まる」のか。こうして、「神の国」をめぐるイメージと意味のネットワークが不透明になり始める。弟子たちが待ち切れず眠り込んだほどの最後の祈りは、「アッバ父」なる神の意志をたずね求める必死の闘いであったのだ。>(p207
※「ルート・メタファー1」は、「天上の祝宴」(p47)。イエスの「揺らぎ」は逮捕後さらに、ピラトゥスの面前で沈黙するほど深まる。それは「神の国」のイメージ・ネットワークがいまにも破裂しそうだったからだ(p211212参照)。そして破裂に至ったのが十字架の死である。
<イエスの最期の絶叫は、文字通り、神への懸命な問いだったのだ。「なぜ自分は『神の国』の実現を見ることなく、かくも残虐な形で殺されなければならないのか」「俺は一体何だったのか」「俺のすべての働きは何のためだったのか」。イエスがこれまで「神の国」について編み上げ、それによって自分のすべての言動を意味づけてきたイメージ・ネットワークが今破裂してしまった。イエスの最期の絶叫はその破裂の叫びだったのだ。イエスは、遠藤周作が言うような予定の死を死んだのではない。覚悟の死を死んだのでもない。自分自身にとって意味不明の謎の死を死んだのである。否、謎の殺害を受けたのである。(中略)その謎は彼自身においてではなく、彼の死後に残された弟子たちにおいて初めて解けることとなる。それが復活信仰の成立する瞬間である。>(p215
※「神の国」をイエス独自の思想として重視しないのは荒井氏だけではなく田川氏も同様で、荒井氏は「イエスが洗礼者ヨハネから継承した最も重要な思想の一つ」であるがそれをイエスは「自らの振舞によって止揚していった」(『イエスとその時代』p124)(p2)と述べ、田川氏は「本質的な問題ではなかった。どうでもよかったのだ、と言ってもよい」(『イエスという男』p31)p3)と述べている。なお、『ユダヤ人イエス』では、後述のとおり神の国の概念はエッセネ派の間には現われなかったと記されている。
※<そのヤハウェはいまや「王」ではなく、「アッバ父」として立ち現れ、「失われたもの」を尋ね求め、無条件で受け入れようとしている。その招待は失われた「選民イスラエル」に属するすべての者に、従って、現にその中で差別されている「小さな者たち」、言わば「失われたものの中の失われたもの」「二重に失われている者たち」にも発せられている。(中略)通常のユダヤ教黙示思想の終末論では、世界が改まる時に、エルサレムが全地の中心となり、そこへすべての異邦人も集められることが期待されていた(イザ五六6-7、〔後略〕)。イエスが宣べ伝える「神の国」は、この種のエルサレム中心主義と決別している。>(p136137
<明らかにイエスは「神の国」を宇宙大、世界大の広がりを持つものとしてイメージしていた。しかし、他方ではそれは小さな仲間内の宴会(飲み食い)、それも王侯貴族の宴会ではなく、農村の小さな宴会としてイメージされていた。神は局所に現れる。これはイエスの隣人愛の教え(「善きサマリア人」の譬え)が示すことと同じである。その時その場で目の前に居合わせた特定の個人の求め(局所)に集中する時にこそ、人は神に出会い、隣人愛の普遍的な真理を実行する。世界の問題は自分の足下にある。(中略)イエスの「神の国」が指し示すのは、神がすべての人間の「いのち」を無条件で欲しているということである。その人が誰であり、どれほどの業績の人であるかに関わりなく、神の招きは無条件である。(中略)シュヴァイツァーこそは言説によってではなく、行動によって、イエスの「神の国」の非神話化を試みた最初の人物であった。(中略)神の無条件の赦しと人間のエゴイズムの問題(中略)イエスが一方ですでに実現しつつある「神の国」を神の無条件の招きとして宣べ伝えながら、他方では、来るべき「その人」による「さばき」について語っていたこと(中略)に含まれている問題である。(中略)生前のイエスその人にとっては、(中略)「神の国」はどこまでも「客観的」に到来しつつあるものだったのだ。非神話化する言語を逆方向でいきなり生前のイエスその人にまで持ち込まないように気をつけなければならない。>(p261262
※「神」に関する内容と重なる面がある。下記の箇所でも同様。
<「神の国」は無条件の招きであるから、イエスによれば、人間にできることは、ただそれを「求める」ことだけである。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる」(マタ七7)という有名な言葉はそういう意味であり、イエスの公の活動の第一声にあった「回心」(マコ一15)と同義語である。マタイもルカもこの周知の言葉を記す段落で、次の言葉を続けている。ここでは幼子に向かい合う「アッバ父」のイメージがきわめて鮮明である。(マタイ七章9-11) (後略)>(p99
<イエスは自分がゼカリヤ書のその箇所に言う「王」だと言いたかったのではない。すでに確かめたように(V章六の3)、「王」を神あるいはメシアを指すメタファーとする発想はイエスには不在>(p196
※「神の国」については特に重要なので、他書との比較として、ダヴィド・フルッサー著、池田,毛利 共訳『ユダヤ人イエス〔決定版〕』(教文館)から少し引用する。ただしこの本は、「ユダヤ人の立場」からの史的イエスに対する視点などあまりなく、著者本人が「序」でそれを否定しているし(p16)、それ以前に「私の福音書の解釈は、今日の多くの新約学者のそれ以上に保守的なものである。」(p15)と述べている。実際、内容的にはキリスト教神学者によるイエス本と比べて特別なものは見られない。そのタイトルに惹かれると大いに期待を裏切られる書物である。
「天」は神の婉曲的な表現であって、一般の人々は、神の国が到来したときには、イスラエルはローマの圧制的支配から解放されると信じていた。その当時、ほとんどのユダヤ人は支配者であるローマの権力を憎んでいた。熱心党として知られていた集団は、ローマに対する武力闘争は、神から命令されたものであり、そして彼らのテロ活動家たちは国家を不安にすると信じていた。十二使徒のうちの一人は、一時熱心党員であった。熱心党の基本的な教義は「神の全き支配に対する要求であり、これがローマの皇帝の主権の主張と過激な対立をもたらすことになった。それは、ローマの圧制者との闘いを通じて、世の終りにおけるイスラエルの終末的解放の到来が告知されるであろうという期待とつながっていた」。熱心党も神の国について語った可能性はあるが、実際にはその当時、この言葉は反熱心党のスローガンになっていたのである。神の国に関するラビたちの考えとイエスの考えとの間には明白な類似が認められるため、われわれはイエスが彼らの考えを発展させたと推定してかまわないであろう。神の国の概念はエッセネ派の間には現われなかった。ユダヤ人の間では、神の国ないし神の支配は、唯一の神が現在正当に支配していることを意味した。しかし、事実上は、「神の国が世界のすべての国民に顕わされる」のは終末論的未来においてだけであろう。イスラエルは現実には、外国の支配のもとにあって苦しんでいるが、最後には神のみがシオンにあって支配されるのである。反熱心党の仲間もこの希望を抱いていた。そしてイエスの弟子たちも同じように考えていた。(中略)福音書の「歴史的イエス」はこの点で黙したままである。(中略)イエスは間接的に、外国人による祖国の占領の終結を暗示したように思われる。しかし、たとえイエスが事実、ローマの陥落を予知したとしても、福音書記者たちは、彼らの宗教の創始者にさらに余計な嫌疑がかけられないようにするため、それには言及しなかったかもしれない。外国の権力によるイスラエルの支配は、イスラエルの罪に対する処罰のように見られていた。(中略)イスラエルが神の意志のみを行おうとするとき、天の国は彼らに現わされるであろう。(中略)ラビ文献によると、外国人による統治の軛は、天の国の出現によってイスラエルから永久に取り除かれる。黙示文書の記者たちは、天の国の出現のときにはサタンとその威力も同じく壊滅されるであろうと信じていた。また、イエスもそのように考えていた。他の関連では、すでに述べたように、イエスの天の国の考えは、ラビたちの考えと関係があった。イエスによれば、神の支配の到来と、終末論的救済者への希望とは、終末期待の二つの異なる局面であった。神の国と人の子の理念は、イエスの心の中では決して混同されてはいなかった。イエスとラビたち両者の考えでは、天の国は実際に神の力によって現われるが、それが地上に実現されるのは人間によってである。したがって、人間は天の国の実現のために働くことができるし、また働かなければならないのである。(中略) イエスにとって天の国とは、すでに始まっている神の終末的な支配であるばかりでなく、地上くまなく人々の間に拡がる神の力の意志をもった運動なのである。天の国は単なる神の王権の問題ではなく、同じく支配の領域、常にさらに多くの人々を包含し、拡大していく王国、人が入っていって彼の伝統を見い出すことのできる王国、大いなる者も小さき者も共存している王国、こういった問題も含まれている。そうであるから、イエスは十二人の弟子たちを人間をとる漁師として召し出し、どこにおいても人々をいやし、教えるようにと彼らを派遣した。(中略)イエスが認識し、また欲したことは神の国のメッセージの中に満たされている。そこにおいて、すべての者に対する神の無条件の愛は見えるものとなり、そして罪人と正しい者との垣根は一掃されている。人間の威厳は無効となり、後の者が先になり、先の者は後になる。貧しい者、飢えた者、柔和な人たち、悲しむ者として迫害されている人々が天の国を受け継ぐ者となる。イエスの神の国のメッセージの中では、しかしながら、厳格に社会的要因といわれるものは決定的な事柄でないように思われる。彼の変革は、おもにあらゆる通常の道徳的価値の再評価と関係しており、それ故に彼の約束が特に罪人に対してのものとなっている。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(マタイ二一・三一ー 三二)。イエスは、ちょうど洗礼者ヨハネが彼より以前にしていたように、社会的に疎外され、またさげすまれた人々の中に共鳴を見い出していた。イエスの非終末論的な倫理上の教えでさえ、おそらく彼の神の国のメッセージに向けて志向されていた。サタンとその威力は覆えされ、また現在の世界秩序は破壊されるのであるから、そのことを冷淡に見据えて、反抗することによって強化されてはならないのである。したがって、だれも悪人に抵抗すべきではない。その敵を愛すべきであって、ローマ帝国を攻撃するように挑発すべきではない。それは神の国が隈なく実現されたときには、これらの一切は消滅してしまうからである。>(p125132

次に、続けて『ユダヤ人イエス』からイエスの神関係について書き写し、その後、『イエスという経験』から「神」のイメージとして語られた譬えを(1)~(7)に分けて書き写す。
<カリスマ性のある敬虔な人々は、彼らと神との結びつきは、他の人たちのそれよりも強いと信じていた ―― もちろん他の人たちが彼らと同じような立場に立つ可能性を排除したわけではないのだが。しかしこれに比べると、イエスの自己認識はいっそう強烈であった。このことは最初の三つの福音書から知ることができる。明らかに、現存するテキストによると、イエスは信仰者にとっての共通の父としての神と、彼の父である神とを区別していた。イエスは神を「あなたがたの父」と呼ぶが、しかし一方で「わたしの父」について語っている。主の祈りも例外ではない。なぜなら、これは自分以外の者たちが祈るためにイエスが用意したものであるが、「天におられるわたしたちの父よ」(マタイ六・九)という言葉で始まっているからである。この語り方は、確かにイエス自身の高い自己認識にそむくものである。なぜなら後の記者が「わたしたちの父」についての言辞を導入した証拠はないからである。(中略)彼は明らかに、彼独特の御子性と神の一般的な父たることとの間をはっきりと区別していたことは明らかである。(中略)イエスは疑いなく、自らを神の子と呼ぶ彼の主張が類のない決定的なことであるとはっきり理解していた。もしイエスが神に対して子のようであったならば、これは単に奇跡を行う者たちが子であること以上のことを意味していた。イエスにとっては、御子性は洗礼の際に、神の声をとおして彼が選ばれたことの結果でもあった。神の子として、彼は天にいる自分の父を知っていた。(中略)イエスは旧約聖書がずっと指さしてきた預言者的教師である。(中略)イエスは自分の神の子としての意識、自分があらかじめ預言者的教師として定められていること、そして自分にふりかかろうとしている悲劇的最後についての予見をそれぞれぶどう園と農夫の譬えの中で結びつけている(ルカ二〇・九ー一九を参照)。(中略)イエスは神の子の死が悲劇の最後になるのではないことを確信していた。彼は譬えの最後に、詩篇一一八・二二の「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった」を引用して、しめくくっている(ルカ二〇・一七)。たとえ神の子が殺されても、彼の大義は勝利することをイエスは確信していた。これこそ、イエスの疑う余地のない「キリスト論的」発言である。(中略)彼のエルサレム入城以前においてすら、彼は自分の悲劇的な最後を感じとっていた、しかしイエスにとっては、この神の子であることの理解は彼のメシアであることの意識とはほとんど一致していなかった。当時のユダヤ人が、殉教の姿を贖いの犠性として知っていたのは事実である。しかしながら、関連のあるテキストを注意深く言語学的に分析してみると、最初の三つの福音書には、イエスが明確に彼を信じる者たちの罪を取り除くために死ななければならないということを表明した、完全に信頼できる言語がないことが分かる。さらに、イエスが、預言者イザヤの書に述べられているような、神の苦難の僕として自らを見ていたようにも思えない。その発想は、初期のキリスト教会において回顧的視点から人々が口にするようになったものであり、イエスの磔刑の前には聞かれなかったことである。イエスは古代の文書をもとに彼自身の死の思想を巧妙にあるいは神秘的に編み出すことはもちろん、それを実行するなどということもなかった。彼は決して中世の宗教劇に出てくる「祝祭のキリスト」ではなかった。なぜなら、イエスは最後の最後まで死と格闘していたからである。>(p138144)※注から2つ引用する。Aが該当の文で濃字は本文でその横に注の番号が付いている文字。Bがその注の文。
A:<雨が必要になったとき、律法学者たちは、学校の生徒たちをハナンのもとに送り、彼のコートのふちをつかんで『アバ、アバ、雨をください!』と言わせるのが常であった。>(p135) B:<(前略)当時は「アバ」は「ラビ」と同じく尊称であった。名称あるいは親愛のしるしとしてのアラム語の「アバ」はヘブライ語のテキストの中にも用いられた。二章の注(27)を見よ。>(p145)・・・その(27)には「イザヤ五・一ー 七を見よ。」(p146)と記されている。
A:<隠者ハナンは、子供の言葉「お父さん」を取り上げ、そして祈りの中で神を「雨を恵むことのできる父」として述べている。そうでなければ、どのようにして子供のようなこういった人たちが神に対して「父」に呼びかけることなどできたであろうか。イエスは同じ仕方で語った。>(p138) B:<(前略)ファン・イェルゼル(B.M.F.Van Iersel)は、ラビの間では神に「われらの父よ」と呼びかけることが、イエスの用いた「わが父」あるいは「アバ」の呼びかけほどの重みをもたなかったことを認めていた。しかし、カリスマ的祈りに関するラビ資料が少ないことを考えると、このことはわれわれにあまり多くを語ってはくれない。(後略)>(p145


(1)マタイ五章44-45節について
<かつて旧約聖書の一人の懐疑家は、「賢者」にも「愚者」にも同じことが起きることを見て、生への勇気を失った(コヘ二14-16、九3)。ところが、このイエスの言葉はまさに逆のことを言う。誰の上にも太陽を昇らせ、誰の上にも雨を降らせる神は、人間同士が設ける「善」と「悪」、「正」と「不正」の区別を絶対的に無化して、すべてを無条件に肯定している。この自然観が前節で述べた自然の変貌と軌を一にしていることは明らかであろう。とすれば、イエスは自然の変貌と共に、「父なる神」を発見したのである。>(P75
※「イエスの自然観」に関する内容と重なる面がある。


(2)「放蕩息子」の譬え(ルカ一五11-32)について
<一読して明らかなように、この父親は神のメタファーである。(中略)兄息子に関わる部分がもともとあったものか、それともイエスの死後の伝承の過程で拡大されたものかについては、いろいろな見解があり、そもそもルカにしかない記事であることもあって、確実な判断が難しい。しかし、神の無条件の赦しが、現実に存在する「真面目」と「不真面目」の区別のゆえに、不公平と受け取られ、結果としての拒絶を生む消息は、前節で見たイエスの言葉の場合と同じであるから、兄息子に関わる部分もイエスの譬えに初めからあったものと考える方がよいと私には思われる。いずれにしても、これはすでに天上の祝宴として始まっている神の国を語る譬えである。「アッバ父」なる神と天上の祝宴という二つのルート・メタファーのイメージを二つながら同時に含むこの譬えは、イエスの数多い譬え話の中でも、会心の作と言ってよいであろう。>(p98)※荒井献氏は、「放蕩息子」の譬えをイエス自身に帰するものとは考えていない(『イエス・キリスト 下』〔講談社学術文庫〕p150


(3)「二人の息子」の譬え(マタ二一28-31、マタイ特殊記事)
<この譬えも生前のイエスのものと考えることができる。父の言葉は二人の息子に等しく発せられているのだが、それに対する応答は、結果として、正反対に分かれていく。これは「放蕩息子」の譬えのポイントでもあった。その背後には、イエスが「選民イスラエル」に属するはずのすべての者に取次いでいる「神の国」のメッセージが、結果として、受容ばかりではなく、多くの拒絶に出会っているという現実がある。しかし、その結果としての「さばき」について、受け入れた者たちは「徴税人と売春婦」、拒絶した者たちは彼らを差別して止まない「真面目な」ユダヤ教徒たちのことだと明言するのは、今までのところ、この言葉が初めてである。>(p100101


(4)「失われたもの」の回復を主題とする一連のイエスの譬え
※「ファリサイ人と徴税人」の譬えは「神」のメタファーが無いので省略。

A.「失われた羊」の譬え(ルカ一五4-7/マタ一八12-14
<九十九匹は現実の「選民イスラエル」、「失われた一匹」はその中の「失われたもの」、百匹はあるべき姿の姿の選民イスラエルを表している。>(同、p102

B.「失われた銀貨」の譬え
<イエスのイスラエル論との関わりが鮮明ではないが、同じように解釈できないわけではない。>(同、p102

C.「ぶどう園の労働者」の譬え(マタ二〇1-16
<「ぶどう園」はすでに旧約聖書の昔から、「選民イスラエル」のメタファーであり、イエス時代のユダヤ人の共通語彙の一部であった。その背景から見ると、この譬えも、ユダヤ社会の「優者」に抗して、「劣者」を回復しようとする「神のアイロニーとユーモア」(川島重成)を語るものに他ならない。>(p103


(5)「タラントン(ムナ)」の譬え
<マタイとルカの間で文言上の違いが大きい。(中略)話題になる金額がマタイではタラントン、ルカではムナの単位になっていることである。ギリシアの貨幣体系での一タラントンはローマの通貨に換算して六千デナリオン、一ムナは百デナリオンである。その一デナリオンは前述の「ぶどう園の労働者」の譬え(マタ二〇1-16)によれば、日雇い労働者の一日の賃金であった。(中略)イエスの譬え話にさまざまな誇張が含まれることは良く知られているが、この金額にはいささか法外な感が否めない。しかし、「神の国」が絶対的な至上価値であることを言うための誇張かも知れないから、金額については何とも言えない。(中略)ルカ版では十人の僕らに等しく一ムナが委託される。金額は別として(常識的にはこちらの方がありそうであるが)、これが元来の、おそらくイエス自身にまで遡る譬えの設定であったと考えられる。(中略)この譬えのポイントは、「神の国」が近づいて、すでにそこに在る「今」(中略)がのっぴきならない決断の時機であるということである。(中略)私たちとしてここで注意しておきたいのは、イエスのイメージ選択があまりノーブルではないことである。>(p107108)※「神」のメタファーがあるので「神」のイメージを伝える譬えでもあるが、「神の国」の譬えと重なる。


(6)「不正な管理人」の譬え
<これはルカ福音書にしかない話である。(中略)前後四つの解釈を繰り広げる。明らかにこの部分は、掲出した本来の譬えに後から(おそらくはルカ福音書の著者の手に渡る前に)付け加えられたものである。この譬えを語り伝えた者たちは、譬えの真意を測りかね、ああでもない、こうでもないと苦し紛れの説明を重ねたのである。逆にそのことは、この譬えが生前のイエスその人のものであることを証明してくれる。では、イエスの真意は何なのか。(中略)イエスが言いたいのは、「神の国」の接近に直面して、誰もがなすべき最大の努めは、「今」この時機を逸さずになすべき決断だということである。(中略)苦し紛れの説明が生まれてくるのは、譬えが目指しているこの唯一のポイントを超えて、「主人」は神で、「管理人」はキリスト教徒だという固定観念が働くからである。(中略)すでにマルコ三章27節について述べたように(本章二の1)、イエスは神を「略奪者」になぞらえることを憚らないのである。中心的な比較点を鮮明に打ち出すためなら、イエスは常識では憚られるようなイメージを用いることをためらわない。>(p109110
※マルコ3:27について・・・<元来は別の文脈で語られたものが、二次的にこの論争の中に置かれたのかもしれない。いずれにしても、「強い者」はベエルゼブルあるいはサタン、それを縛り上げてその家財道具を略奪するのは神、あるいは、その神の支配(神の国)が今や地上にも広がりつつあることを、悪霊祓いによって示す者、つまり、この比喩の語り手イエスである。「強い者の家財道具」とは、悪霊憑きに苦しんでいる者のことである。ところが、キリスト教の固定的な倫理観が働くと、「強い者」とあれば神かイエスのことで、「略奪」は悪いことだから、サタンのすることだという、全く逆転した解釈になりやすい。(中略)重要なのは、イエスが神と神の国について比喩的に語る時、通常の常識からすれば憚られるような表現やイメージを、憚ることなく用いることである。目下の比喩の「略奪する」がそうであり、後述する「不正な管理人」の譬え(ルカ一六1-8)では、とりわけそうである。すでに述べたように、神の国では、人間が設けた常識的な善と悪、正と不正の区別が無化されてしまっていることが想起されるべきである。>(p92)※「神」のメタファーがあるので「神」のイメージを伝える譬えでもあるが、「神の国」の譬えと重なる。


(7)「盛大な宴会」の譬え(ルカ一四15-24
<マタイでは、ある王が王子のために催した「婚宴」となっている(マタ二二1-14)。(中略)これはルカでもマタイでも「神の国」の譬えとされている(ルカ一四15/マタ二二2)。これが生前のイエスによって語られたものであることを疑う研究者はいない。印象的なのは、使われているイメージが、どこまでも農村的である点である。(中略)マタイが「ある王」の主催の婚宴に改変したのは、この意味で、全く当たらない。しかも、すでに見たように、生前のイエスには神を「王」とするイメージはなかったのである。>(p9596)※「神」のメタファーがあるので「神」のイメージを伝える譬えでもあるが、「神の国」の譬えと重なる。
※<彼が宣べ伝える「神の国」には、「選民」を自認する一部のユダヤ人よりも東西の異邦人の方が先に入り、祝宴の席に着くのだから(マタ八11-12/ルカ一三28-29、前述Ⅲ章三の1参照)。しかも、その宴席は王侯貴族の宴席ではなく、農民の宴会としてイメージされているのだから。「神の国」は「農村」なのだから(Ch.プルシャルト)。>(p195

※「十人の乙女」の譬え(マタ二五1-13)、「善きサマリア人」の譬え(ルカ一〇30-36)も「神」のメタファーが無いので省略。「神の国」の譬えに該当する。

 

 

 






 

神の霊が私を造り、全能者の息が私を生かす。」(ヨブ記33:4 並木浩一訳)

 

「あなたが顔を隠すと彼らはおびえ、あなたが彼らの霊を集めると彼らは息絶え、彼らの塵に帰る。あなたがあなたの霊を送ると彼らは創られ、あなたは土地の表を新しくする。」(詩篇104:29~30 松田伊作訳)

 

「誇れ、かれの聖なる名を、喜べ、ヤハウェを尋ねる者たちの心は。求めよ、ヤハウェとその力とを、尋ねよ、かれの顔を常に。」(同上、105:3~4 同訳)

 

<われらにではなく、ヤハウェよ、われらにではなく、あなたの名にこそ、栄光を与えて下さい、あなたの恵み〔と〕真実のゆえに。なにゆえ諸国民は言うのか、「彼らの神は、いったいどこだ」と。われらの神は天に〔いまし〕、おのが悦ぶことをみな行なう。>(同上、115:1~3 同訳)

 

ヤハウェを畏れることは、いのちの泉、死の罠から免れさせる。」(箴言14:27 勝村弘也訳)

 

「友愛と真実によって、咎は覆われる。ヤハウェを畏れることによって、〔ひとは〕悪から離れる。」(同上、16:6 同訳)

 

「人の心は、その道を考え出すが、その歩みを導くのは、ヤハウェである。」(同上、16:9 同訳)

 

人の息は、ヤハウェの灯火。腹の中の隅々まで調べあげる。」(同上、20:27 同訳)

 

<私を貧乏にも富裕にもしないで下さい。私に適する量のパンを味わわせて下さい。私が飽き足りて、〔あなたを〕否認し、「ヤハウェとは誰か」と言うことのないように。また、私が貧乏になって、盗みを働き、私の神の名を粗末に扱うことのないように。>(同上、30:8~9 同訳)

 

「神の前では、言葉を出そうとして、慌てて口を開いたり、心を焦らせたりするな。なぜなら、神は天におり、あなたは地上にいるのだから。」(コーヘレト書5:1 月本昭男訳 )

 

「幸いの日には幸いであれ。災いの日には〔災いを〕見つめよ。人間が後のことを何一つ見きわめ〔られ〕ないようにと、神はあれもこれも造り出したのだ。」(同上、7:14 同訳)

 

「そして、塵はもと通りに地に戻り、霊はこれを与えた神に戻る。」(同上、12:7 同訳)

 

神ヤハウェが、こう言われる、すなわち、天を創造し、これを張り巡らし、地とその作物を推し広げ、その上の民に息を与え、その中を歩む者に霊を授ける方が、「わたし、ヤハウェは、義をもってあなたを呼び、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約と、また国々の光とする。>(イザヤ書 42:5~6 関根清三訳)

 

<あなたたちはわが証人――ヤハウェの御告げ――、また、わたしが選んだわが僕だ。〔選んだのは、〕あなたたちが知って、わたしを信じ、わたしがその者だと、悟るためである。わたしより前に造られた神はなく、わたしより後にも存在しない。わたし、このわたしこそ、ヤハウェであって、わたしの他に救い主はいない。このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。あなたたちのうちに、他には〔神は〕いなかった。そしてあなたたちはわが証人――ヤハウェの御告げ――。わたしが神だ。これから後もわたしがそれだ。わたしの手から取り返せる者はなく、わたしが事を行なえば、誰がそれをもとに返すことができようか」。>(同上、43:10~12 同訳)

 

「まことにわたしは干からびた地に水を、乾いた地に流れを、注ぐ。わが霊をあなたの子孫に、わが祝福をあなたの裔に、注ぐ。こうして彼らは、青草の中にあって、水のほとりの柳のように、芽生える。」(同上、44:3~4 同訳)

 

<ヤハウェが、こう言われる、イスラエルの王、これの贖い主、万軍のヤハウェが、「わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしの他に神はいない。>(同上、44:6 同訳)

 

<わたしがヤハウェである。他にはいない。わたしの他に神はいない。わたしはあなたに力を帯びさせるが、あなたはわたしを知らない。これは、わたしの他には空であると、日の上る方からも、暮れる方からも、人々が知るためだ。わたしがヤハウェである。他にはいない。〔わたしは〕光を造り、闇を創造する者、平安を作り、災いを創造する者。わたしはヤハウェ、これら総てを作る者」。>(同上、45:5~7 同訳)

 

ヤハウェは、胎内にある時から私を召し、母の腹にいる時から私の名を呼ばれた。」(同上、49:1b)

 

<彼は私に言った、「人の子よ、あなたの足で立て。わたしはあなたの語ろう」。彼が私に語ったとき、霊が私の中に入り、私をわが足で立たせた。私は私に語りかける方〔の声〕を聞いた。>(エゼキエル書2:1~2 月本昭男訳)

 

「こうして、わたしがお前たちの墓を開き、お前たちをわが民としてその墓から上らせるとき、お前たちは知るであろう、わたしがヤハウェである、と。わたしがお前たちの中にわが霊を与えるとき、お前たちは生き〔返〕るであろう。」(同上、37:13~14 同訳)